2005年07月31日

人生は花火のようなもの?


2003年の隅田川。激戦の少年野球場で場所取りしました。「花火が綺麗に映る」という使い捨てカメラのCMが頻繁に流れている。
そのCMの決めゼリフは「花火たち喜んでますね」だ。

夏の夜空に咲く、火の花たち。
華々しく開いたその瞬間を正確に切りとってもらえるのは、確かに嬉しい事なのかも知れない。

しかれども、そんな刹那の輝きの後に訪れる静寂と暗闇を含めてこそが花火ではあるまいか。

もしかしたら、たとえそれがどんなに正確であろうとも、こちらでそんな一瞬だけを強制的に切り取って留めておこうとするのは、彼らへの冒涜なのかも知れない。

そして。

花火を写真に撮る時に一番困るのは、そのタイミングだったりするのだ。


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2005年07月28日

台風の後

台風7号が去った。
今シーズン初め、プロ野球読売巨人軍に鳴り物入りで入団したものの、わずか4試合でクビになって帰っちゃったメジャーリーガーダン・ミセリ(防御率 23.63)以上の肩透かしぶりを見せつけてくれた事に、まずは感謝したい。
台風の被害ばかりは、記憶にも記録にも残らないのが一番であろう。

さて、「風が吹くと桶屋が儲かる」という言葉があるが、それではあなたは「台風が来るといっこうが甘味を欲する」という言葉はご存知か。

・・ホントにご存知だったら怖いことだが、とにかくそういうパブロフ反応が私にはあるということである。いやいや、正確には過去にそんな時期があったという事を、昨日ブログを巡りながら思い出したのだ。

今日はそんな話。

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2005年07月24日

進蚊論

豪華な機能追加のために却って操作が複雑化して使いにくくなってしまい、逆に買うのがためらわれてしまう電化製品というのがある。

最近では携帯電話などが典型的だ。
当然のようにテレビを視聴できたりするし、さらにはWebブラウザやPDFビューワまでが搭載されているものまであると聞くし、もはや携帯のデフォルト機能と言ってもいいカメラ部分などは、自分のブサイク具合を余すところなくキッチリ収めて容赦なく私を打ちのめしてくれるほどに高性能になっている。
その進化ぶりは凄まじく、本来の「電話する事」に機能を限定したシンプルな商品に逆にある程度の需要が集まるくらいである。子機よりもシンプルな高齢者向けの携帯を見て、お食事拠「おかくら」主人「簡単じゃないか〜」と詠嘆の言葉を発している様はその象徴だ。岡倉大吉は多分あの携帯で、チェ・ジウそっくりの長子と連絡を取り合ってるのだろう。

この「 余計な能力の為に、本来の目的が達せられない 」という本末転倒的な事態は何も電化製品に限られる事ではなくて、動物や虫といった生物にも当てはまるケースがある。

例えば、この夏の時期にはうっとうしい迷惑虫「 蚊 」がそれだ。

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2005年07月19日

本バトン

突然だがここで質問。

「いつも通る道を歩いていると、バトンが落ちていました。あなたならどうしますか?」

・・・いや、これは心理テストではない。
だから仮にあなたが、
「そのバトンを望遠鏡に見たてる一発ギャグをかます」
と答えたとしても、
「あなたの恋人束縛率は75%です。バトンは猜疑心を象徴しています。ゆえに望遠鏡ギャグを試みたあなたは、深層心理では常に恋人の言動の裏を覗きたがっているということです。相手を信用する余裕も必要ですよ。」
などの学術的な分析に基づく完璧なアドヴァイスを与えたりすることはできない。

そうではなくて、本当にそんな状況を目の当たりにしたら、あなたはどう行動するかという純粋な質問である。

もしかしたら、
「陸上選手の引退式でもあったのかな?」
なんて風に、道に置かれたバトンに山口百恵のマイクを連想する人も居るかもしれない。他人の心は原理的にわからない。

しかし自分の事であれば分かる。

どうやら私は、おもむろにそのバトンを拾って走り出すらしいのだ。

それを裏付ける一つの物証が、巡回先のブログ様でみつけた「BoookBaton」を勝手に拾って、私がこの記事を今まさに書いているという事実である。

そんなわけで、やっぱり今日も私はバトン片手に颯爽と走る。
「♪拾ったバトンで走り出すー」などと歌ったら、尾崎豊ファンに殴られるのだろうか。

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2005年07月15日

漫画バトン

「二度ある事は三度ある」。
偉大な先人が打ち立てたこの歴史的仮説に私が始めて出会ったのはいつの頃であっただろう。これとほぼ同時期に習うであろう「三度目の正直」という、もう一つの経験的仮説の巨人との折り合いをどのようにつけるかで懊悩する事は、この国に生まれた者であれば誰もが通る、大人に成る為の悲しき通過儀礼ともいうべきものである。

年齢的に大人の階段を結構な所まで登ってきてしまった私は当然、「で、実際三度目はどうなのよ?」という永遠の議題の前には単純な二元論は役に立たないことを看破すると共に、「そんなのケースバイケース!」という絶対真理に到達していた。

しかし昨日、この絶対なはずの真理を脅かす事態が発生した。

それが、この辺境ブログに先日の「音楽バトン」「ビデオゲームバトン」に続く三度目のバトン「Comic Baton」が渡されたという事件である。

もしかしたら、この世は「二度ある事は三度ある」で出来ているのかもしれない。

そんなわけで今日も私はバトンを持って走る。それはもう軽快に。

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2005年07月13日

世間ずれ


新聞って面白い今日の読売新聞の1面に、文化庁が12日に公表した「平成16年度国語に関する世論調査」に関する記事が載っていた。

見出しには
「中高年ほど慣用句”誤用”」
とある。

少し興味をひかれたので内容を読み進めてみると、「青田買い」を「青田刈り」、「汚名返上」を「汚名挽回」、「伝家の宝刀」を「天下の宝刀」などと、慣用句を本来の形からはずれた間違った形で覚えている人が結構な割合で存在する事が、今回の調査の結果で明らかになったという。
そしてこの記事の見出しで強調されているように、そうした「勘違い」をしている人が含まれる割合は、若者よりも中高年の方が高かったそうだ。たとえば「青田買い」であれば、16〜19歳での誤用率が14.5%であるのに対し、50〜59歳では41.9%、60歳以上で39.5%が誤用しているというデータが出ている。

この結果に対しては、まぁ色々な意見があると思う。
この国の高年齢層にも国語力低下が波及していたのかと新聞の読者投稿欄で嘆くも良し、言葉の使い方なんてその時代の多数者が使用している方がもはや正しいのでは?と問題提起するのも良し、この報告を受けたそれぞれが好きなような行動をとればいい。例によってそれは私にはどうでもいいことだ。

ただ私は、この記事の以下の文章を読んで思わず声を出して笑ってしまった、ということを報告したいと思った。
文化庁は「中高年は言葉を知っているがゆえに、混同してしまうのではないか」と分析している。


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posted by いっこう at 16:18| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月10日

直立アメリカンショートヘアー


ザ・無防備「君を信じる」。
多少表現のばらつきはあれど、これまでの人生の中で様々な人に言われてきた言葉であるし、私自身も誰かに対して何度か使ったことがあるセリフである。恐らくこれを読んでいるあなたもそうだろうと思う。日常にありふれた言明の一つだ。

そして私は一方で、この言いまわしを自分が使う、および誰かに使われる場面において、いつも違和感を覚えている。

もしかしたらこの人は、誰かを「信じる」と口から発するだけで得られるある種の道徳的な陶酔を貪りたいだけなのではないのかと邪推する。誰かを「信じる」と言ったこの私は、もしかしたら、後に相手に問題が生じた時に「君を信じてたのに」という破壊力抜群な道義的攻撃武器を堂々と行使されても文句は言うなという、悪魔の誓約書を相手につき付けているだけではないのかと自問し、恐怖する。

これらの違和感は、あるにはあるが最大のものではない。
私がこれら以上に感じる一番の違和感は、ある人間が誰かを「信じる」と言うケースにおいては、大なり小なり、その人の中に「信じない」という選択肢が結局存在してたんじゃないか、というある種の悲しみを伴ったものとして認識されるものなのだ。

冒頭の写真であられもない姿を披露する、愛すべきアメリカンショートヘアーの半次郎。
私は彼と相対する時、「コイツが突然二本足で立ちあがって、『オマエまだ彼女でけへんの?』とざっくばらんな関西弁で話しかけてくることはない事を信じる」なんて事は絶対に思わない。
それはかなり大げさだとしても、私は日々「自宅に隕石が落ちてこないと信じている」などと意識的に思う事はないし、もっと下って「この部屋の天井が落ちてこないと信じている」と表明する事などもありえない。

確かにこれらの「信じる」を意識したり表明したりするのは馬鹿馬鹿しい。
しかしこの馬鹿馬鹿しさは、「天井は落ちてこない」といった事柄が、「信じるか信じないか」という二択から縁遠く疑いの余地のないほど強力な地位を約束されていることを否応なく物語ってしまう。

「君を信じる」。
多少表現のばらつきはあれど、この言葉は対象に全幅の信頼を寄せている事の表明という名目で使用されている。しかしその実、その信頼の強さの上限は、自室の天井の強度によって上から押さえつけられていると言わざるを得ない。

「信じるか信じないか」という二択が前提として存在していてこその「信じる」という選択である。

私はそこに切ない違和感を覚えてしまうのだ。

「あなたを信じる」。
発言者の温かい飛躍の表明に、嬉しさを感じる自分も確かに居る。

「君を信じる」。
安易な期待ではなく見返りも求めない、自身の密やかな覚悟を込めて言い切った時もあった。


だが願わくば、君にとっての僕が、僕にとっての君が、「半次郎が話しかけてこない事」程度に強固な何がしかであらんことを。

そんなの無理なんだけど。
posted by いっこう at 21:32| Comment(12) | TrackBack(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月06日

聴講

昨日の雨とは打って変わって、今日はさわやかな晴天。
絶好の床屋日和や!

というわけで、私は蒸し暑い夏には少々のび過ぎた髪を切ろうと床屋へと向かった。

しかし床屋で髪を切られる時というのは落ちつかないものだ。

まず第一に、この顔を30分以上も見続けなければならないのが苦痛である。朝夕のハミガキ時以外にまじまじと鏡を眺める習慣が無い私にとって、デカイ鏡に強制的に対面させられる床屋での一時は、自分のぶちゃいく加減に対するコンプレックスをチクチクといたぶられる、拷問にも似た時間なのだ。はぁ。
もういい年なんだからいい加減自分の顔の作りぐらい受け入れろよと自分でも思うが、今日も私は鏡に映っているアホ顔を眺めながら「また余計な肉がついてブサイク度アップ!重くヤバイ!!」などと、(出来るだけ明るく)脳内でダメ出しをしてしまう。

さてさて、私がそんな雑念と脳内戦争を繰り広げている間にも、床屋の兄さんは黙々とカットを進めてくれていたのだが、カット過程の中盤に差し掛かったあたりで、そんなカリスマ床屋師の彼が長い沈黙を破って私に話しかけてきた。

「この後どこか行かれるんですか?」

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posted by いっこう at 02:04| Comment(27) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月02日

失われた声


「こいつがもし話したら」という仮定の下での声イメージもある(笑)あなたは、大山のぶ代演じるドラえもんの声を聴く以前に自分の頭の中で響いていた、漫画のドラえもんのあの声を、今思い出せるだろうか。

ドラえもんを初めて見たのが既にアニメだったというのであれば、別に野沢雅子アフレコ声を聴く前に、ジャンプ誌上でブルマと会話している孫悟空のセリフを読んでいたときに、あなたの頭の中で聞こえていたあの声でもいい。
ドラえもんもドラゴンボールも知らないというのであれば、鉄腕アトムでもワンピースでもちびまる子ちゃんでもこち亀でもなんでもいい。とにかくアニメ化によって声が具体化される前、原作漫画を読む時に想定していた登場キャラたちのあの声を、今あなたは思い出せるだろうか。

もしかしたら私が特殊なのかも知れないが、普通人が漫画上でのセリフを読んでいる時には、何らかの声をイメージしていると思われる。その声は、既に他メディア(アニメやラジオドラマなど)で声が流通されていない限りは、「現実の誰か」と具体的に特定されることのない声イメージなのではないだろうか(アニメ・声優界に造詣が深い人であれば「このキャラはこの声優さんがいいなぁ」という希望の下に具体イメージを描いて読んでいるのかもしれないが)。

だから初めてアニメ化されてテレビの中で話しているキャラを見たりすると、自分の中で出来上がっていた声イメージと現実の声優の声とのギャップに違和感を感じたりする。
そしてその違和感は、その後ずっと繰り返し聴かされその声優の声にイメージが固定化してゆく過程で次第に消えてゆき、いつしか原作漫画を読んでいる時に頭の中で聞こえてくる声さえも、アニメの声優の声に落ちついてしまうものだ。

そうなってくると、私は今度は以前自分の頭の中で鳴り響いていた
「誰でもない誰か」
のあの声を取り戻したくなる天邪鬼なのだが、それはもう恐らく無理なのだろう。

永遠に失われた声。


さて、ありがたいことに私は最近このブログで、多くのコメントを頂けるようになった。

そして、そんな数々のコメントを読む際にも、私の頭の中では「誰でもない誰か」の声が響いている。

ブログに対するコメントは、「文章」というよりも「会話」や「セリフ」といった方に近く感じられるために、それを読む私の中では「誰でもない誰か」が話す声が聞こえている。
あらためて意識してみると、驚く事に私は各個人(署名)ごとに「誰でもない誰か」の声を使い分けていることに気づく。Aさんのコメントを読む時はこの声、Bさんのコメントを読むときはこの声というように、一人一人に個別のイメージを持っているのだ。

それは、皆さんのブログの文章を読んだりコメントをやり取りした事の積み重ねで培った私の幼稚なイメージに過ぎないわけで、かなりの確率で現実のみなさんの声とは違うのだろう。

皆さんに現実でお会いする事があるとしたらその瞬間、永遠に失われる儚き幻の声。


今日コメントを読みながら、ふとそんな事を考えた。

キモイとか言わないで!
posted by いっこう at 19:55| Comment(14) | TrackBack(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月01日

2005年6月の月例報告


なんでだろう。なんでだろう。なんでだなんでだろう。毎月恒例のこの記事を書くためにアクセス解析を見ていると、やけにラヴログの独り言カテゴリからの来客が多い事に気づく。まさかと思って調べてみれば、何の間違いか、このブログが独り言カテゴリランキングの16位にいた。いつのまに。
ラヴログのランキングポイント算出法は、エヴァ零号機誕生の過程と同じぐらい謎に包まれているが、私はこの「逆転スペクトル」がランクインしたという事実から、その謎を解く手掛かりを見出す事に成功した。


どんどん投稿ペースが下がる一方の風前の灯ブログが、他のお歴々のランカーに比べて勝るところといえばどこか。

「文字量」しかない。

読者の忍耐を試すような一本の記事あたりの文字量、毎回512文字制限との戦いを繰り広げる各返信コメントの文字量ならば、どこにも負けない自信がある。というかここしか特色がない。
これまで投稿数、コメント数、TB数、アクセス数などの様々な「数」関連の要素が想定されてきたであろうが、どうやらラヴログには「数より量」思想もあるらしいぞ!

そんな、瞬間最大風速に過剰にはしゃぐガキ管理人が6月を振り返ります。

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posted by いっこう at 18:42| Comment(13) | TrackBack(0) | 月例報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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